スティーブ・ジョブズの印刷業界に与えた影響
はじめに
私は1969年にキヤノンに入社してから36年間、様々な開発業務に携わってきたが技術的にも文化的にも最も変化に富んで刺激的な時代だったように思います。スティーブ・ジョブズとは1998年前半頃にキヤノン下丸子本社の私が使っていた試作機検討用実験室で一度だけ会った事があります。1990年に発売と同時に大ヒット商品となったノート型バブルジェットプリンターBJ-10の試作機を説明し、インクで汚れた手で握手をした事を昨日の様に思い出します。それでは本論に入る事とします。
- Apple MacintoshからiPhone、iPadへ
アップルコンピュータの創業者スティーブ・ジョブズが2011年10月5日に亡くなって、すでに5年以上が経過しましたが、その間スティーブ・ジョブズに関する数多くの伝記物の書籍が出版されたり、テレビの特別番組が放送されたり、昨年秋には映画まで公開されるほどで、今更ながらアメリカンドリームを地で行った彼のカリスマ性に多くの人々が興味を持っているのだと感じました。また、その興味の対象はiPod, iPhoneやiPad等が魅力的で生活に密着している身近な存在である事から、それらを世に送り出した人物の人となりを世界中の人々が知りたかったのではないかと想像します。
しかし、意外と知られていないのがジョブズの印刷業界に与えた大きな影響についてです。1984年1月にApple Macintoshを、その翌年の1985年にPostscript搭載レーザープリンターApple Laserwriterを世に送り出す事でDTPという新たなソリューションを創出するきっかけを作り、印刷業界の急成長に貢献したジョブズでした。しかし、そのほぼ20年後の2007年にiPhoneを発売し、2010年にはiPadを発売する事により、情報端末機器が世界的規模で普及し、Twitter, Facebook等のSNSや電子書籍、電子新聞アプリケーション等が急速に普及して行った結果、ペーパーレス化が進み印刷物の需要が大きく減少するきっかけを作ったのも同じくジョブズだった、という皮肉な現実があります。 - パーソナルコンピュータ黎明期
スティーブ・ジョブズやApple社の生い立ちなどは、Webからも多くの書籍からも溢れるほどの情報が得られるので、私ごときが触れるつもりはありませんが、私が1969年から技術屋として様々な方式のプリンター開発に携わる中で必然的に知見を広めていったコンピュータ関連の歴史を振りかえってみたいと思います。
1976年にアップル社が設立された頃は、いわゆる8ビットCPUベースのワンボードコンピュータの時代でアップル社のAppleⅠ、Ⅱもそうであったし、アタリやコモドール等から多数の製品が販売されていた時代で、1980年代初めまでそのような状況が続いていました。しかし、これら製品の仕様は各社バラバラでありOSも無ければ出力用プリンターなども無い状態でした。この様な状況に終止符を打つのが1981年に発表されたIBM PCの登場です。IBM PCはCPUにインテル8088マイクロプロセッサーを、OSはマイクロソフト製のMS-DOSを採用し、記録メディアとしてフロッピーディスクを備え、更に拡張ボードスロット、シリアルI/FとパラレルI/Fを備えて1,565ドルと画期的な製品でした。更にシリーズ製品のPC/XTや高速モデルのPC/ATを立て続けに市場に投入しましたが、それら全てがオープンアーキテクチャーであった為、発売後1年もしない内にコンパックを始めとする多くのメーカーから互換製品が多数発売される事で、結果的には本格的なパーソナルコンピュータ時代が訪れる事となります。
IBM PC
- IBM PCとHP LaseJetが変えたパーソナルコンピュータ文化
1981年のIBM PC登場を境に世界中に乱立していたワンボードで独自アーキテクチャーのパーソナルコンピュータは少しずつ減少(AppleⅠ、Ⅱも例外では無く)し、IBM PCとその互換機が欧米を中心に急速に普及していきました。しかし、IBM PCはMS-DOS上で動作するテキストベースのアーキテクチャーであり、かつ1バイト文字対応であったため、2バイト文字である日本語への対応は1990年に日本IBMが発表したDOS/Vの登場まで待つことになります。ちなみに日本国内では1982年末に発売されたNEC9801とそのシリーズ製品がデファクトスタンダードとなり、OSもBASIC、MS-DOSからWindowsへと変化していきますが、前述したDOS/V PCの登場と1からWindows95へとより使いやすいOSを搭載し低価格なIBM PC互換機の登場により、NEC9801シリーズも1995年以降急激にシェアを落として行く事になります。
ちなみに、IBM PCの標準プリンターとして同時に発表されたのがエプソンの9ピン・ドットマトリックス・プリンターMX-80でした。IBM PCの主な用途は文書作成と表計算だった為、WordPerfectやLotus 1-2-3等のアプリケーションソフトが普及し、その出力用プリンターの需要も高まってきました。その様な中、1984年にHPはLaserJet (レーザープリント・エンジンはキヤノン製)を発売する事となります。LaserJetは解像度が300dpiでプリント速度は8ppmと画期的な性能を持ち、HPが開発したPCL(Printer Command Language)を搭載し、セントロ(パラレル)I/FによりPCと接続される仕様でした。LaserJet登場以前のPCプリンターはディジーホイール(活字輪)方式か9ピン・ドットマトリックス方式が主流でしたから、高品位と高速を両立したLaserJetはまたたく間に普及していきました。 - ジョブズの逆襲
IBM PCの登場によりApple Ⅱの販売にも大きな影響が出て低迷していたアップルは、IBM PCに対抗出来る次期製品の開発を全社をあげて行っていたが、ジョブズを筆頭にウォズニアック、ジェフ・ラスキンなどといった個性豊かなメンバーの集まりだったので、なかなかコンセプトがまとまりませんでした。結局、ジョブズが訪問したXerox PARC(パロアルト研究所)で見たGUIベースのAltoにヒントを得てMacintoshの基本コンセプトを考えつく事となります。その後は自身の考えを貫き通すジョブズ主導で、アーキテクチャーから筐体デザイン(筐体モールドの内部に開発メンバーの名前を彫ってあった話はあまりに有名。)、更には周辺機器のコンセプトやデザインにまで口を出し、あの有名なTVコマーシャルと共に初代のMacintoshの発表を行いました。
Apple Macintosh
ジョブズがGUIとともに強くこだわっていたのはWYSWIG(What You See Is What You Getの略)であり、ディスプレィで見たものを見たまま得る(プリント出力する)という意味で、このコンセプトを持ち前の独創力と熱意で形にしてしまうのです。1985年3月に発売されたApple LaserWriterは解像度300dpiのキヤノン製レーザープリンター・エンジンを、コントローラーにはAdobe製のPostscriptが採用されており、画面表示と完全に同じ様に印刷する事でWYSWIGの世界が生まれました。
WYSWIGという新たな世界の出現には当然の様にして新たなアプリケーションが登場してくるもので、1986年にアルダス社から発売されたAldus PageMakerはその代表的な物でした。当時IBM PC上で動作するWordPerfectなどのワープロソフトは文字単位でのレイアウト機能でしたが、PageMakerはその名の通りページ単位でデザイン可能な機能を有する事から、製品発表時に社長のポール・ブレィナードが使ったDesk Top Publishing(DTP)という言葉と共に、印刷業界を中心に世界中に広まって行きました。
Apple LaserWriter
- 印刷産業の成長~成熟~衰退について
1980年以降、右肩上がりで成長を続けていた印刷業界はDTPという武器を手に入れる事で、印刷データの生産性が飛躍的に向上し1990年代初頭まで成長し続けるが、1991年以降になるとインターネットや携帯電話の普及により書籍離れやペーパーレス化が進み、国内の印刷物出荷額も少しずつ減少していくことになります。しかし、1995年のCTPの登場や企業努力により印刷物のコストダウンが進むことで、2000年前半までは印刷物需要も緩やかな減少でしたが、その後は目を覆うほどの状況である事は周知のところです。むしろ、重要なことは現状を直視し、今後10年、20年といったタームで出来るだけ正確に将来を予測する術を身に付ける事で、将来ビジョンを描き実行する事でしょう。同じ様な状況はパーソナルコンピュータでも起きているのですから。 - パーソナルコンピュータ時代の終焉
GUI、WYSWIGといったイメージハンドリングがIBM PCで可能になるのは、Macintoshが登場した10年後のWindows95が出てからであるが、未だに日本国内でのDTP環境のほとんどがMacintoshでありWindows上で使っているユーザーは欧米に比べて非常に少ないようです。何故かと言うと、相変わらず日本語の2バイト問題からWindowsの素性がMS DOSの延長上(テキストベース)に有る為に微妙な文字デザインなどで、MacとWindows環境の違いが発生するようです。
しかし、DTPの環境がMacかWindowsかと悩んでも意味が無い時代がすでに来てしまった様に思います。即ち、何か出版をしようとすれば当然の様に電子書籍と冊子書籍の同時発売か、電子書籍のみで良くて冊子書籍は不要とまで言われています。その結果、クラウドベースで様々な書籍データ制作の環境が世界中で整ってきているので、DTPが死語となるのもそう遠くは無いのではと考えます。更にはiPadやAndroid端末の爆発的普及によりパーソナルコンピュータで使われていた様々なアプリケーションソフトがクラウドから使えるようになり、Google端末などの登場で環境はダイナミックに変化し続けています。